合法なもの(ハラール)は明らかであり、非合法なもの(ハラーム)も明らかである。そしてその間には、多くの者が知らない紛らわしい物事(ムシュタビハート)がある。ゆえに疑念の余地がある物事から身を慎む者は、自らの宗教と尊厳に潔白であれるだろう。一方、疑念の余地がある物事に陥る者は、禁じられた領域に足を踏み入れてしまうことになろう。…

合法なもの(ハラール)は明らかであり、非合法なもの(ハラーム)も明らかである。そしてその間には、多くの者が知らない紛らわしい物事(ムシュタビハート)がある。ゆえに疑念の余地がある物事から身を慎む者は、自らの宗教と尊厳に潔白であれるだろう。一方、疑念の余地がある物事に陥る者は、禁じられた領域に足を踏み入れてしまうことになろう。

アン=ヌゥマーン・ブン・バシール(彼にアッラーのご満悦あれ)は言った:私は、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)がこう言うのを聞いた:「合法なもの(ハラール)は明らかであり、非合法なもの(ハラーム)も明らかである。そしてその間には、多くの者が知らない紛らわしい物事(ムシュタビハート)がある。ゆえに疑念の余地がある物事から身を慎む者は、自らの宗教と尊厳に潔白であれるだろう。一方、疑念の余地がある物事に陥る者は、禁じられた領域に足を踏み入れてしまうことになろう。それはまるで、禁制区域周辺で(家畜の)番をしている家畜番のようなもので、(家畜は)今にもそこに入って食べてしまいそうである。まことに全ての王には、禁制区域がある。そしてアッラーの禁制区域こそは、かれが禁じた物事なのである。実に体には、それが健全であれば体全体も健全であり、それが悪ければ体全体も悪くなる、1個の肉塊がある。それこそが、心なのだ。」

[真正] [二大真正集収録の伝承]

الشرح

一般原則として、アッラーとその使徒が合法(ハラール)としたものも、アッラーとその使徒が非合法(ハラーム)としたものも、明らかである。だがムスリムが恐れるのは、紛らわしい物事(ムシュタビハート)である。ゆえに紛らわしい物事を放棄する者は、ハラームな物事に陥ってしまうことから、自分の宗教性を安全に保つことが出来る。また、そのような紛らわしい物事に足を踏み込んでしまうことに対する人々の非難からも、自らの尊厳を安全な状態に保つことが出来る。 一方、紛らわしい物事を回避しない者は、ハラームな物事に陥ることや、人々の陰口やそしりを受けることから免れない。 アッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は、この紛らわしい物事に足を踏み入れる者について、たとえを挙げている。それは、その所有者が禁制区域とした土地周辺で、ラクダや羊を飼う家畜番のたとえであり、その者の家畜は今にもその禁制区域に入ってしまいそうである。同様に、紛らわしい物事に足を踏み入れてしまう者は、それによって明白にハラームな物事に近づき、そこにまで陥ってしまいそうである。 また、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は、表面的行為が正しさや悪などの内面的行為を表すということに触れている。体には、それが健全であれば体も健全であり、それが悪ければ体全体も悪くなる1個の肉塊があり、それこそが心なのだ、と説明している。

فوائد الحديث

合法な(ハラール)物事を行い、非合法な(ハラーム)物事や紛らわしい物事(ムシュタビハート)を避けることの勧め。

紛らわしい物事には特別な規定がある。多くの者にとっては分かりにくかったとしても、ある種の人々にはそこに辿り着く法的根拠がある。

仕事、生活上のこと、その他あらゆる取引において、紛らわしい物事から自重しない者は、自らの尊厳を他人からの非難に晒すことになる。

心の高い位置づけに関する喚起。それを正すことの勧め。心こそは身体の司令塔であり、その健常さによって身体が正され、その悪によって身体もまた悪い状態になるのである。

合法か非合法かに関して、物事は3種類に分類できること:つまり明らかに合法な物事(ハラール)。明らかに非合法な物事(ハラーム)。そして紛らわしい物事(ムシュタビハート)である。

宗教的諸事の護持と、人間性への配慮。

非合法な物事(ハラーム)につながるようなことの防止。それについてのイスラーム法上の根拠は数多く存在する。

イスラーム的な実際的意味を説明するにあたっての、たとえの利用。

التصنيفات

イスラーム的法規定, 心の行為の徳, 心の浄化