偽信者にとって最も難儀な礼拝は、イシャーの礼拝とファジュルの礼拝である。もし彼らがそこにあるものを知っていたら、這いつくばってでもやって来たであろう。私は礼拝の開始を命じ、それから誰かに礼拝の先導をさせ、私は焚き木の束を持った男たちと共に出て行き、礼拝にやって来ない人々のところへ行って、その家を火で燃やしてしまおうとまで思ったほどだ。…

偽信者にとって最も難儀な礼拝は、イシャーの礼拝とファジュルの礼拝である。もし彼らがそこにあるものを知っていたら、這いつくばってでもやって来たであろう。私は礼拝の開始を命じ、それから誰かに礼拝の先導をさせ、私は焚き木の束を持った男たちと共に出て行き、礼拝にやって来ない人々のところへ行って、その家を火で燃やしてしまおうとまで思ったほどだ。

アブー・フライラ(彼にアッラーのご満悦あれ)が預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)から伝えるところによれば、彼はこう語った:「偽信者にとって最も難儀な礼拝は、イシャーの礼拝とファジュルの礼拝である。もし彼らがそこにあるものを知っていたら、這いつくばってでもやって来たであろう。私は礼拝の開始を命じ、それから誰かに礼拝の先導をさせ、私は焚き木の束を持った男たちと共に出て行き、礼拝にやって来ない人々のところへ行って、その家を火で燃やしてしまおうとまで思ったほどだ。」

[真正] [二大真正集収録の伝承]

الشرح

アッラーがクルアーンの中で仰っているように、偽信者たちは人々に見せるために行い、アッラーのことは少ししか念じない。そしてイシャーとファジュルの礼拝の中で、怠慢さを示す。それらの礼拝は暗い時間であり、礼拝者の姿も見えないので、多くの偽信者たちは、休憩や甘い睡眠の時間にあたるこれら2つの礼拝を怠けがちである。これら2つの礼拝を積極的に集団でしようとするのは、アッラーの信仰と来世の褒美への呼びかけに促される者たちだけである。これら2つの礼拝が、偽信者たちにとって最も難儀で億劫なものであるのは、以上の理由による。 もし彼らが、それらの礼拝をマスジドでムスリムたちと集団で行うことの褒美について知っていたならば、幼児のように手足で這ってでもやって来ただろう。預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は、怠慢ゆえにそれら2つの礼拝を集団でやらない者たちを罰することを欲するほどだった、とアッラーに誓って語っている。それは、集団礼拝を開始させて彼の代わりに礼拝を先導させ、焚き木の束を抱えた男たちと共に礼拝に参加しない者たちのところへ出かけて行き、それらの者たちの家に火をつけて燃やしてしまう、という方法である。それは集団礼拝から退くことに対する、彼らの罪の大きさ故のことである。別の伝承経路のハディースでは、「もし彼らの家に、無実な女性や年少者たちがいなかったなら」そのようにしただろう、という表現もある。

فوائد الحديث

集団礼拝は成年男性にとっての個人義務である。

害悪を防ぐことは、利益を導くことよりも優先される。罰に値しない者たちを罰することを恐れるがゆえに、預言者はこのようなやり方による懲罰を行わなかった。

害悪は、大きな罰ではなく軽い禁止によって回避できるのであれば、それで済ませることが可能である。預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)自身、懲罰ではなく警告を優先させた。

偽信者たちにとって全ての礼拝は難儀であるが、その中でも最も難儀なのがイシャーとファジュルの礼拝である。

偽信者たちの崇拝行為の目的は、見せかけと外聞だけである。彼らは人目につく礼拝にしか、やっては来ない。

イシャーとファジュルの礼拝の徳。

イシャーとファジュルの礼拝を集団で行うことの、偉大な褒美。それらは、這ってでもやって来るに値するということ。

イシャーとファジュルの礼拝の厳しさはそれを集団で行うことによる、ということが文脈上から窺える。そこから退きたいという動機の強さ、そこに参加することを阻む要因の強さゆえに、それらの礼拝が厳しく感じられるのだ。

イマームは何らかの仕事がある場合、代理者を立てて礼拝を先導させることが出来る。

罪悪者たちには突然罰が降りかかること。

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偽信, 偽信, 礼拝の徳, 礼拝の徳